苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

古代キリスト教伝来説 まとめ  追記2016年12月16日

 景教の研究で有名な佐伯好郎博士は1908年(明治41年)論文「太秦(うずまさ)を論ず」において、京都の太秦寺のイスラエルを連想させる「いすらい井戸」や三位一体を連想させる「三柱鳥居」や「イエス・メシアハ」の音を連想させる「うずまさ」という地名などから、太秦寺は、唐代の中国で流行した大秦寺と同じくキリスト教の寺であり、渡来人である秦氏は古代ユダヤキリスト教徒である、と主張した。太秦寺建立は603年説と622年説がある。
 学界は時代錯誤であるという批判を佐伯説に向けた。すなわち、景教が中国にはいったのは、唐の太宗皇帝の時代の635年であり、その後、約200年間、中国では大秦景教が流行した。つまり中国における景教の隆盛は7世紀前半から8世紀にかけてであった。しかも中国では最初、彼らの寺の名は波斯寺つまりペルシャ寺と呼ばれ、大秦寺と名を変えたのは745年であった。ところが、秦氏が日本列島に渡来したのは4-5世紀である。中国に流行した景教が日本に渡来したというなら、時間的順序が逆ではないか。・・・というわけで、学界では太秦寺=大秦寺=景教寺院説は顧みられない。
 これに対して、後年、佐伯氏は、なお自説を撤回せず、いや秦氏はもともと景教以前の古代キリスト教徒であり、彼らは中国をパスして日本に渡来したので、キリスト教は中国より先に日本に伝わったのだと主張するようになった。景教とは431年エペソ公会議でネストリオスが排斥されて、彼をシリア教会のペルシャ地区が受け入れたために別派となり、それが7世紀前半中国に伝わって付けられた名称である。景教以前の古代キリスト教とは、シリヤ教会のことを意味する。秦氏来日の記録は、日本書紀によれば、応神天皇の14年春2月(西暦283年)に弓月君(ゆづきのきみ)が百済から120県の人々を連れて来たという。そして、佐伯説によれば、この弓月君は何者かといえば、天山山脈の北にあるバルハシ湖に流れるイル川の上流にあった弓月国の出身であるという。
 現状としては、佐伯説はトンデモ学会でのみ話題になる珍説にすぎない。もし佐伯説の逆転ホームランがあるとしたら、「弓月国」なるキリスト教国が実在したこと、その1〜2世紀ころ弓月国から東方へ向けての集団移住があったこととを、考古学者が遺跡を発掘して証拠立てる必要があるのだろう。そしたら、シュリーマンのトロイ発掘のような世紀の大発見になる。
 厩戸皇子聖徳太子)の側近に秦河勝がいたこと、秦氏は渡来人であったこと、秦氏の氏寺が太秦寺であること、太秦寺は太子信仰の寺であること、秦氏が大陸の技術をもってきたこと、その技術をもって平安遷都にかかわったこと、これらは事実である。
 しかし、厩戸皇子と呼ばれたのはキリスト誕生の事跡からつくられた名だということは可能性があるが推測。秦氏の築いた都が平安京と呼ばれたのはエルサレムと同義だということも推測である。ましてや紀元前8世紀アッシリヤ帝国によって連れ去られてしまったイスラエル十部族が弓月国の人々であり、それゆえ日本人の中には失われた十部族の血が脈々と流れているという「日ユ同祖説」は空想であろう。
 ただ佐伯説に有利なことを述べれば、たしかに紀元2世紀にはすでにシリヤ教会は佐伯氏が弓月国があったという中央アジアにさかんに伝道をしていたという事実がある。
シリヤ正教会中央アジア伝道・・・HP http://www.syrian.jp/002-3-4.htm

<追記 2016年12月16日>
弓月国について、丸山憲二氏の論文を見つけた。
中央アジアカザフスタン内にあり、東の一部がシンチャンウイグル自治区にかかっている。天山山脈のすぐ北側に位置し、南にはキルギスタンが接する。弓月国はシルクロードの北方ルート上にある。バルハシ湖の南、イリ川付近である。弓月国の人々も、万里の長城の苦役に耐え切れず日本へ渡来した。弓月君は、120県の大集団を率いての渡来であった。1084年(元豊7年)成立『資治通鑑』全294巻。巻題99に弓月の記録がある。」
後半の日本への渡来は日本書紀の記事である。
出典 file:///C:/Users/mizukusa/Downloads/hataoukoku.pdf



今年はイチゴがたくさんとれそうです。