苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ペンテコステ

レビ23:15−18、使徒2:1−12
2009年5月31日 小海ペンテコステ礼拝

1.ペンテコステ(五旬節)

「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。」2:1
 みなさん気づいたでしょう。今朝、講壇背後の十字架に新しいリースが掛かっています。クリスマスリースは常緑のもみの枝で作るのですが、これは五月の小麦でできています。村上祥子さんにつくっていただきました。今年のイースターはイエス様の復活を記念する白百合を飾りましたが、さて聖霊降臨のペンテコステを記念するにはなにが適当だろうと考えました。ある兄弟に相談したら「炎でしょう」と言われましたが、それでは会堂が火事になってしまいますし、ある姉妹は「炎のように分かれた舌というのだから、ベロをたくさんぶら下げる」などと提案なさいました。でも牛タンをぶらさげたらぎょっとしますね。また、イエス様の肩に聖霊がハトのようにくだったとあるので、ハトのことも考えましたが、ハトをぶら下げるとなんだか、このあたりの畑をねらうカラスを追うための仕掛けの黒いビニールの鳥みたいで変です。
 そこで、もう一度五旬節の意義そのものを考えることにしました。旬という文字は、月の1日から10日を上旬、11日から20日を中旬、21日から月末までを下旬というように、10日間を表わしています。ですから五旬節というのは第50日祭という意味です。ギリシャ語ではこれをペンテコステと言います。もともとこのペンテコステ(五旬節)は過越祭の安息日の翌日から五十日目に行なわれる小麦の収穫感謝祭でした。レビ記23章15節から18節

「あなたがたは、安息日の翌日から、すなわち奉献物の束を持って来た日から、満七週間が終わるまでを数える。七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を【主】にささげなければならない。あなたがたの住まいから、奉献物としてパン──【主】への初穂として、十分の二エパの小麦粉にパン種を入れて焼かれるもの──二個を持って来なければならない。そのパンといっしょに、【主】への全焼のいけにえとして、一歳の傷のない雄の子羊七頭、若い雄牛一頭、雄羊二頭、また、【主】へのなだめのかおりの、火によるささげ物として、彼らの穀物のささげ物と注ぎのささげ物とをささげる。」

 過越しの安息日の翌日とは、なんの日でしょうか?そうです。イエス様の復活日です。新約の時代は、イエス様の復活日から五十日目がペンテコステつまり五旬節として祝われることになったのです。復活したイエス様は、復活から四十日目、天に上られる前におっしゃいました。
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレムユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」使徒1:8
 贖いのわざを成し遂げて天に上ったイエス様は、天から聖霊を注いでくださいます。それは世界宣教が始まるためだったのです。旧約時代にはイスラエルの中にのみ限られていた救いが、聖霊が教会に注がれることによって、世界中にひろがり、世界という畑からの魂の大収穫が始まったのです。イエス様が、収穫感謝祭であるペンテコステを、聖霊を注ぐ日としてお選びになったのは、そのためだったのです。


2.聖霊降臨

 さて、このペンテコステの日、主にある兄弟姉妹たちは二階の大広間に集って熱心にお祈りをしていました。
「すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。」(使徒2:2、3)
 目に思い浮かべると不思議な光景です。まず、急に台風か竜巻でもやってきたような激しい暴風の響きが起こりました。二階部屋で祈っていた兄弟姉妹は、いったい何事かと驚きましたが、なにやら赤い炎のようなものが現れて、そこにいたひとりひとりの上にとどまったというのです。おもしろいですねえ。
 風と炎のような分かれた舌、いずれもくだられた聖霊の象徴にほかなりません。イエス様はあるとき、聖霊を風にたとえて言われました。
「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」ヨハネ3:8
 風は思いのままに吹くというように、聖霊はご自分の望むままに活動されるのです。私たち人間が聖霊を支配できるわけではありません。けれども、風が吹いたときには音がしたり、肌に感じたり、木の枝についた葉がひらひらと動いたりします。
そのように聖霊がお働きになると、いままでイエス様を信じなかった人、心かたくなで決して聖書を読もうとか言わない人、神様になどまるで関心のなかった人が、ある日突然、聖書を読んでみたいとか、神様とはどんなお方なのだろうとか関心を抱くようになったりするのです。風が吹いたのです。私自身も19歳のとき、突然、聖霊の風に吹かれたのです。そして、聖書が神のことばであることが信じられたのです。みなさん一人一人もそういうことがあったでしょう。

 また、聖霊は一つの炎の先のほうが分かれて舌のようになって、使徒たち一人一人の上に止まりました。これは何を表わしているかと考えると、使徒たちそれぞれが別々の霊を受けているのではなく、同じ聖霊を受けているのだということを意味するのでしょう。使徒たちはこれからそれぞれ世界に散っていきますが、各地で形成される教会は「公同の教会」なのです。
また、炎と聞いてすぐに思い浮かぶのは、紀元前1500年ころモーセがミデヤンの荒野で目撃した、燃える柴の木でしょう。それは燃えても燃えても決して燃え尽きることがありませんでした。無尽蔵の神のエネルギーの象徴ですね。人間の肉のがんばりでは、伝道もくたびれてしまいますが、神様の無尽蔵のエネルギーを聖霊にいただくならば、力は尽きることがありません。イエス様がサマリヤの井戸におられて伝道していらしたとき、弟子たちは食べ物を買いにいって帰ってきましたら、イエス様は「わたしにはあなたがたの知らない食物があります。」と言いましたように、伝道していると伝道者は疲れるより元気になるものです。世界宣教は聖霊の力によって進められるものです。
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレムユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)


3.他国のことばで・・・世界宣教

 まさに、その世界宣教の時代が来たのだということをはっきりと、そこにいたユダヤ人の兄弟姉妹に悟らせるために、神様はひとつの奇跡を見せてくださいました。というのはユダヤ人たちは選民意識に凝り固まっていて、異邦人との間には高い壁があったからです。彼らは生まれながらのイスラエルガリラヤ地方の人たちでした。外国語など知る由もない人々ですが、その彼らが聖霊に満たされたときに、外国語で話し始めたのです。話した内容は、いうまでもなくキリストの福音です。
 このペンテコステの祭りのとき、エルサレムはやはり巡礼者たちが来て暮らしていました。彼らは普通はアラム語ということばで生活していましたが、このときなつかしいふるさとのことばで福音を聞くことができたのです。
「すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
  さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。
彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」」2:4−11
 パルテヤ、メジヤ、エラムメソポタミアというのは、今で言うイランとイラクの地域です。カパドキヤ、ポント、アジア、フルギヤ、パンフリヤは小アジア半島の各地です。エジプト、クレネ、リビヤは北アフリカ。そして、クレテとはエーゲ海に浮かぶ島、アラビヤは今日サウジアラビがあるアラビヤ半島です。東はイラン、南は北アフリカ、アラビア、そして西はローマから人々が集っていた巡礼者たちがそれぞれ母国語でキリストの福音を聞いたのです。そこには『ユダヤ人もいれば改宗者もいる』とありますが、改宗者とは異邦人で旧約聖書の神様を信じるようになった人々です。
 紀元前4世紀後半、マケドニア半島に、アレクサンドロス大王が登場して、アジア、ヨーロッパ、アフリカにまで広がる大帝国をつくりました。東は北インドにまでおよびます。アレクサンドロスの大帝国ははやがてローマ帝国に継承されました。この世界を人と商品と文化とが自由に東西南北に行き来するようになります。この時代、ユダヤ人たちも移住をして地中海世界と、東はパルテヤ(イラン)にまで広がっていきました。ユダヤ人たちは移住した先々で会堂(シナゴーグ)を造り、安息日ごとに旧約聖書が朗読されました。そこで礼拝していたのは、移民のユダヤ人と、異邦人でありながら万物の創造主を信じる信仰に改宗した人々でした。使徒たちは、彼らに、彼らの母国語で、「旧約聖書に預言されていたメシヤがついに来られた。十字架にかけられて復活されたイエスこそ、そのメシヤである」と宣言したのです。世界宣教のスタートです。
福音を聞いてキリストを信じた人々は、またそれぞれの故郷へと帰っていき、キリストを証して行きました。たとえばローマに最初に宣教したのは誰でしょうか。パウロでしょうか。そうではありません。パウロはすでにローマに出来ている教会の兄弟姉妹に手紙を書いているではありませんか。ローマに福音を伝えて教会を始めたのは、パウロではなく福音を聞いて回心した一般の信徒たちでした。初代教会から古代教会の時代、福音を世界にもっとも効果的に証したのは一般信徒たちでした。
では、東の方はどうでしょう。やはりペンテコステに回心した人々が最初でしょう。ペンテコステの日、「わたしたちはパルテヤ人、メジヤ、エラムメソポタミア人」と言っている人々です。その後にシリア正教会から派遣されて行ったのが使徒トマスです。トマスは、早くも紀元35年にはアッシリヤ地域(イラン・イラク)に伝道し、さらに52年にはインドのケララにまで伝道しました。トマスはインドに行って後、さらに中国にも伝道に行ったとも言われます。その後、ふたたびインドに戻り、68年から75年ごろインドでバラモン教徒の手にかかって殉教したそうです。トマスが始めた教会はアッシリヤ東方教会といって、今日までちゃんと続いていて、インターネットで調べればHPもあります。
そしてこのアッシリヤ東方教会は、635年中国にペルシャ人アラホンがキリスト教を中国に本格的に伝え、当時の唐の皇帝太宗は638年に伝道を許可したので200年間中国ではキリスト教伝道が盛んになされました。そのキリスト教は大秦景教と呼ばれ、中国全土に大秦寺と呼ばれる会堂がたくさん建立されました。
シルクロードの東の終着点である日本の奈良・京都にも、16世紀ザビエルが来るよりずっと前、4世紀後半に福音が伝わった痕跡が残っているという仮説があります。京都に太秦(うずまさ)という場所がありますが、ここは古代に秦氏という渡来民が定住した場所です。研究者(佐伯好郎博士)によれば、太秦寺は今でこそ仏教寺院の形をしていますが、古代の本来の太秦寺は古代キリスト教の礼拝堂であったということです。もしそうだとしたら、日本には中国とちがって、残念ながら明確な歴史的証拠が残っていないのは残念なことです。
(参照http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20090605/1244161665

むすび
 聖霊が注がれたペンテコステにキリストの福音が世界中の人々に、それぞれの母国語で語られました。神様は民族国語を越えて、キリストの福音を宣べ伝えるようになりました。
聖霊に満たされて、わたしたちもキリストの証人として立てていただきましょう。

WinXPのおまけのペイントで描きました。