苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

一度にすべてではなく

「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。」へブル1:1,2
 宮村武夫先生は、しばしば「一度にすべてではなく」とおっしゃる。宮村先生は聖書学者として、聖書の啓示のありかたから、この神の摂理の原則ともいうべきものを見出された。神は聖書を組織神学書のような姿で一度にすべてを啓示なさらず、実にさまざまのジャンルからなる39巻の啓示の書物を、千数百年もかけてさまざまな時代背景の中でさまざまな記者を用いて書かせ、それらを集成されたものとして聖書を我々にお与えくださった。
 ジャンルについていえば、歴史書あり、法律集あり、説教集あり、詩歌あり、箴言集あり、書簡あり、預言集あり、戯曲ありである。記者は王であったり、祭司であったり、農夫であったり、学者であったり、漁師であったり、政治家であったりといろいろである。しかも、その集成である聖書全体は、ひとつの有機的統一性をもっている。
 聖書は「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られ」たものの集成なのである。しかも、それほど多様でありながら統一性ある内容である。
 創世記第一章は被造物世界の創造が多様であって調和しており、歴史的なものであることを教えている。聖書の啓示の方法もまた多様で調和しており、かつ歴史的なものなのである。「一度にすべてではなく」というフレーズは、「すべて」という完成時における全体性を暗示しつつ、そこにいたるための啓示のプロセスの漸進性を意味している。そして、その原則は単に啓示のありかただけでなく、神の創造と摂理のわざの原則に通じている。
 神が造られたこの世界は多様にして一つであり、しかも、歴史的漸進性をもつ世界なのである。私風に表現すれば、こんなふうに「多様性・統一性・歴史性」というふうに観念的なことに止まってしまうのだが、宮村先生は、「一度にすべてではなく」と実践的に表現なさってきた。これは内容的には同じことを指しているようでありながら、実際的にはずいぶんちがうのである。「多様性・統一性・歴史性」というのは、「ははあ。この世界はこんな仕組みで動いているんだ」と眺めて満足している観想者のことばである。しかし、「一度にすべてではなく」は、「道ははるか遠くとも、完成をめざして、現状からきょう一歩踏み出そう」という実践者のことばである。神の摂理を眺めているのでなく、神の摂理の下に勇敢に生きるための知恵のことばが「一度にすべてではなく」である。
 実際、宮村先生の目に映る理想は、一見、現実ばなれしていて凡人には「そりゃ無理でしょう」と思えるようなことが多いのだが、先生のこれまでの歩みを遠くから見せていただくとき、その理想は着実に実を結んできた。それは先生が、「一度にすべてではなく」を常に意識して実践してこられたからにほかならない。先生にとっては、理想の反対語は現状であって、現実ではない。
 私はまだまだだなあと思う。よし。今日、一歩前へ!(クロネコヤマトか?)


**近々、宮村武夫著作シリーズが刊行されます。第一巻は『愛の業としての説教』です。