苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

いのちの君に帰れ ルカ23:27−31

2009年5月24日 小海主日礼拝

「大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った。しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ』と言う日が来るのですから。そのとき、人々は山に向かって、『われわれの上に倒れかかってくれ』と言い、丘に向かって、『われわれをおおってくれ』と言い始めます。彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう。」

1.エルサレムの娘たち
 
 ゴルゴタに向かうイエス様のあとを大声で泣きながらついていく女たち。この嘆き悲しむ女たちは、ガリラヤからイエス様についてきた多くの弟子集団のなかの女性たちではありませんでした。彼女たちは「エルサレムの娘たち」と呼ばれています。「エルサレムの娘たち」は、数日前イエス様がエルサレムに入城したときから、ここほんの数日の間にイエス様を信じ支持するようになった女性たちなのでしょうか。群衆や彼女たちはイエス様のことを気の毒にと思って泣きながらぞろぞろついてきたのでしょうか。
もしそうだとすると、イエス様が振り向いて彼女たちにおっしゃったことばの内容があまりにも厳しい審判を告げるものなので、私たちはとまどってしまいます。
エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。」
 イエス様は、彼女たちに自分自身と自分の子どもたちのことを泣けとおっしゃり、さらにエルサレムに対して神の厳しい審判がくだる日が近いと告げられたのです。こうしたところを見ると、この女たちは、本当にイエス様の十字架の死を嘆き悲しんでいる人々ではなく、泣き女の類の女たちであると考えたほうが適切であろうと思われます。泣き女というのは、葬式において職業的に泣いて葬式の悲しみを演出する女性たちのことです。泣き女は一般に東アジアのものであると言われますが、古代においては、東アジアばかりではなく、世界中にいたようです。聖書のなかでも会堂管理者ヤイロの娘が死んだとき、イエス様がヤイロの家に行くと、葬式の準備の笛吹き男とともに泣き女とおぼしき女たちが大きな声を上げて泣いていたようすがしるされています(マタイ9:23、マルコ5:38)。
 過越しの祭りとはイスラエルにとってもっとも大切な祭りでした。過越しの出来事こそ、イスラエル民族のアイデンティティといってよい歴史的出来事でした。エジプトの縄目から、神がイスラエルを解放してくださったという出来事でした。このようなイスラエル民族に対する神の救いの歴史が振り返られる聖なる厳粛な祭りの真っ最中に、残忍な十字架刑を行うのはいかにも不適切です。けれども当時はこの十字架刑が世界中から集った巡礼たちの目を楽しませる残酷なアトラクションの一つのようにされていたようですです。ですから、泣き女たちもその見世物の演出のためにワーワー泣き喚きながらぞろぞろとついていって、その場を盛り上げるという役割を担っていたわけです。
 恐ろしいことです。聖なる神の御子が、私たち人間の罪のために苦しみの淵をわたっているそのときに、職業的泣き女たちが心にもない涙を流し、心にもない嘆き声をあげていたというのは、なんとも陰惨で、人間はいったいどこまで罪深いのだろうと暗澹たる思いにさせられます。


2.エルサレムへの審判

 さて、主イエスは振り返って、この女たちに対して、まもなくエルサレムに行なわれようとしている審判について預言なさいます。
 「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ』と言う日が来るのですから。」(23:28−29)
 女性にとって、特に伝統的なユダヤ社会では子どもを授かるということは、喜ばしく誇らしいことで、逆に結婚はしたけれど子どもが得られないということ非常には悲しいことでした。旧約聖書にあるアブラハムの妻サラが不妊の女であることでどれほどつらい思いをしたかを思い出すでしょう。子どもを授からなかったラケルや、サムエルの母ハンナの記事もあります。ところが、主イエスがおっしゃるエルサレムの日には、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ』と言う日が来るとおっしゃるのです。
 それは、やがてエルサレムはローマ軍に包囲されて、2年間の篭城のなかで食べるものが尽き果て、子どもに乳の飲ませようとしても乳も出ず、着る物も着せてやれず、死なせてしまうようなことになるからです。こんなにつらい思いをさせるなら、むしろ産まなければよかったと思うような状況になってしまいます。いや実は、もっと恐ろしいことが起こったのです。
 説明するのが恐ろしいので、ただ読みたいと思いますが、これは申命記に記された契約の成就でした。イスラエルが神を捨てて偶像崇拝と不公正な歩みをして、あくまでも神に反抗するときには、次のような災いが起こるとすでにモーセの時代に言われていたのです。
 「【主】は、遠く地の果てから、鷲が飛びかかるように、一つの国民にあなたを襲わせる。その話すことばがあなたにはわからない国民である。その国民は横柄で、老人を顧みず、幼い者をあわれまず、 あなたの家畜の産むものや、地の産物を食い尽くし、ついには、あなたを根絶やしにする。彼らは、穀物も、新しいぶどう酒も、油も、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も、あなたには少しも残さず、ついに、あなたを滅ぼしてしまう。
 その国民は、あなたの国中のすべての町囲みの中にあなたを包囲し、ついには、あなたが頼みとする高く堅固な城壁を打ち倒す。彼らが、あなたの神、【主】の与えられた国中のすべての町囲みの中にあなたを包囲するとき、あなたは、包囲と、敵がもたらす窮乏とのために、あなたの身から生まれた者、あなたの神、【主】が与えてくださった息子や娘の肉を食べるようになる。あなたのうちの最も優しく、上品な男が、自分の兄弟や、自分の愛する妻や、まだ残っている子どもたちに対してさえ物惜しみをし、自分が食べている子どもの肉を、全然、だれにも分け与えようとはしないであろう。あなたのすべての町囲みのうちには、包囲と、敵がもたらした窮乏とのために、何も残されてはいないからである。
 あなたがたのうちの、優しく、上品な女で、あまりにも上品で優しいために足の裏を地面につけようともしない者が、自分の愛する夫や、息子や、娘に、物惜しみをし、自分の足の間から出た後産や、自分が産んだ子どもさえ、何もかも欠乏しているので、ひそかに、それを食べるであろう。あなたの町囲みのうちは、包囲と、敵がもたらした窮乏との中にあるからである。」(申命記28:49−57)
 その苦しみがあまりにもはなはだしいので、エルサレムの住民たちは山や丘が崩れていっそのこと死んでしまったほうがましだとさえ思うようになるというのです(30節)。
「そのとき、人々は山に向かって、『われわれの上に倒れかかってくれ』と言い、丘に向かって、『われわれをおおってくれ』と言い始めます。」


3.生木に、枯れ木に

 そして主イエスはおっしゃいました。「 彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう。」(31節)
生木とはイエス様ご自身のことです。生木とはいのちのある木という意味です。イエス様はいのちの源である父なる神のひとり子です。イエス様のうちには神のいのちがあり、その生命によって私たちに天国につづく永遠の生命をたまわります。主はおっしゃいました。ヨハネ4:13,14
「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
また言われました。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」
エス様はご自分のうちに命があり、ご自分がいのちそののものであるから、「わたしを信頼しなさい、わたしにとどまりなさい」と命じてこられました。イエスさまの立派な教えを守り実行するという以前に、いのちであるイエス様ご自身につながること、止まることが肝心なことです。この違いは決定的に重要なことです。
 宗教家は、心頭滅却して厳しい修行をすれば、悟りが開けるというでしょう。哲学者は、これが真理の道だから、この真理を学びなさいというでしょう。心理学者たちが書いているハウツー本は、たとえば「積極的前向きなことばしか使わないようにしよう。」とかいうふうに教えるでしょう。けれども、イエス様は、そうではなく、わたしのところに来なさい。私につながりなさい。私にとどまりなさいとおっしゃいました。
 イエスに止まり、イエスにつながるというのは、イエスとの生きた人格的交流に入るということです。人格と人格の交流のために必須のことは、心を開いて語るということです。ですから、ほんとうに救いを経験したいならば、教理を頭で勉強するだけでなく、必ずイエス様に向かって、心開いて祈らなければなりません。イエス様を心に受け入れて信じて、「イエス様。わたしを助けてください。」と祈ることが必須なのです。そのようにしてイエス様を受け入れた人は、いのちを持っていますから、そういう人が神学の勉強をすることはたいへん有益ですが、イエス様を受け入れていない人がいかに神学を勉強してもむだなことです。その人のうちにいのちがないからです。種まきをしたところに水をまくことは意味のあることですが、種をまいていないのに水をまいてもむだなのと同じです。水をまく前に種をまかねばなりません。種を蒔くとはイエス様を心に受け入れることです。

 ところが、エルサレムの人々はせっかく天から下ってこられた神の御子イエスさまを拒絶しました。確かにうわべではほんの数日前に、エルサレムの人々はイエス様を大歓迎したように見えました。しかし、多くの群衆が期待したのは、ローマ帝国の桎梏を破壊して彼らを政治的に救う王でした。祭司や律法学者たちは、自分たちから民衆の尊敬が去って、イエスに移っていくことに怒りを覚えました。結局、民衆の多くは、イエス様がかんたんに逮捕されなんの抵抗もしないのを見て、なんだイエスはあんなに弱い男だったのかと失望したのです。それで宗教的指導者たちといっしょになって、ピラトの法廷では「イエスを十字架につけろ」と叫び続け、そしてついにゴルゴタへと追いやっているのです。
「生木にこんなことをする」とおっしゃるのは、こういうことです。彼らは結局いのちの君を拒絶し、ついには十字架にまでつけてしまったのです。
 「枯れ木にはどんなことが起こるでしょう。」と主イエスは続けられました。枯れ木とは、いのちの木であるイエス様に神に背を向けた祭司たち律法学者たち、イスラエルの多くの民衆のことです。
 神様は非常に忍耐強いお方です。実に千年間、イスラエルの民を悔い改めて神に立ち返らせるために、エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤ、ホセアといった多くの預言者を派遣なさいました。けれども、イスラエルは悔い改めるどころか、預言者たちが派遣されると、そのたびに彼らを迫害して殺してしまいました。エレミヤもイザヤもみな迫害されました。イスラエルは枯れ木でした。見かけは立派でも、まことの神との交わりをなくした彼らはいのちのない枯れ木でした。神のことばが語られても、聴く耳を持たない彼らは生きているけれど、死んでいる枯れ木でした。
 そこで、最後にご自分の御子を地上に人として送ってくださいました。主イエスはおっしゃいましたね。ヨハネ15:5−6
「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」
 枯れてしまったような枝も、イエス様といういのちの幹につながるならば、そこに止まるならば命がその人の人生に流れ込んできます。やがて実を結びます。けれども、あくまでもイエス様を拒むならば、その枯れ木は焼かれてしまう日が来るのです。イスラエルは「帰ってきなさい」と忍耐強くおっしゃる神の御声に聞くことなく、預言者たちを殺し、最後に神の御子までも殺すのです。彼らは枯れ木でした。そこで、神の裁きの火がくだろうとしていました。
 「 彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう。」(31節)
 枯れ木となったイスラエルに起ころうとしていることについてイエス様は、数日前に弟子たちに話したことがありました。(21:20−24)
 「しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都に入ってはいけません。これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです。
その日、哀れなのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」
 このイエス様のおっしゃったことは、40年後すなわち紀元70年に現実となります。ヨセフスというユダヤ将兵のひとりで名高い歴史家は言っています。「この戦争で九万七千人のユダヤ人が捕虜にされた。包囲攻撃で死んだ者の数は110万人であった。」こうして彼らは亡国の民となります。申命記に言われていたとおりでした。

結び
 神様は忍耐強いお方です。気まぐれに怒りの鉄拳をふるわれるようなお方ではありません。けれども、あくまでも悔い改めず、神の御子イエス様までも拒絶してしまったイスラエルに、ついに審判が下りました。
 私たち異邦人に対して、神様はそのときから福音を始めてくださいました。そして日本全国で、ここ南佐久郡でイエス様の福音が語られるようになりました。イエス様こそいのちの君です。天地の造り主であるまことに神様に背を向けてきたとすれば、きょうこそ、イエス様に立ち返りましょう。

 「きょう、もし御声を聞くならば、 荒野での試みの日に
 御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」