苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

師との出会い

 私は師に恵まれてきた。最初の師は、神戸にある改革長老東須磨教会の増永俊雄牧師。大学浪人の夏の終わり、高校時代の同級生友人宅で増永先生に初めてお目にかかった。当時、私はキリスト教に反抗的で、意地の悪い質問を十ばかり用意して行ったのだった。端座された師の背後のすだれの外ではツクツクボウシが鳴いていた。
 増永先生について印象に残ったことの第一は、なにをお尋ねしても、「聖書はこう言っています」とか「それは聖書に書いていないからわかりませんね」と答えられたことだった。この人には自分の考えというものがないのか?と思った反面、この人はほんとうに聖書が神のことばだと信じきっているのだ驚いた。
 印象に残った第二は、「私が生きているのは神の栄光のためです。私が神を信じるのもまた神の栄光のためです。」といわれたことだった。人生の目的をさがしあぐねていた私には、そのことばは暗闇に差し込んだ光だった。必ずしも意味はよくわからなかったのだが。
 印象の第三。中世の教会がおこなった魔女狩りや十字軍についてどう考えるのかという私の質問に対して、「私たちは神を信じているといいながらも、それほど罪深い者なのです。ですから、神の前に罪を認めてざんげするほかないのです。」と言われた点だった。おどろいた。いろいろと逃げ口上を言うにちがいないと思っていたから。
 考えてみると、この三つのことは今日にいたるまで私の土台となっているのである。最初にどんな種を蒔かれるかということは、決定的なことである。では、私はどんな種を蒔いてきたのだろうか。

追記:このとき、増永先生は「水草君。英語にはTo see is to believe.ということばがあるでしょう。しかし、信仰の世界においては、To believe is to see.なんです。」と理性と信仰の関係について、含蓄あることをおっしゃた。