苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

世の法廷――――門田隆将『裁判官が日本を滅ぼす』

 今、ルカ福音書を説き明かしながら、あらためてキリストの死が、病死でなく、事故死でもなく、公の裁判における刑死でなければならなかったということの意味を考えさせられる。カルヴァンジュネーブ信仰問答で言う。

問56 何ゆえただひとこと、彼は死なれたといわないで、ポンテオ・ピラトについて言及し、この人の下で苦しみをお受けになったといわれているのですか。
答 それは単に、この歴史の確かさをわれわれに証するためばかりでなく、さらにまた、彼の死が刑罰を取り去ることを示すためであります。
 われわれの負うべき罰を忍び受けるため、そしてこのことによってわれわれを罰から救い出すために死なれたのであります。なぜならば、われわれは神の審判の前に、悪をなしたものとして有罪でありましたので、われわれの人格を代理するために、彼は地上の裁判官の法廷に出頭することを望まれ、また天の審判のみ座においてわれわれを赦すために、この男の口から、有罪の宣告を受けることを望まれたのであります。

 確かにカルヴァンの言うとおり。
 だが、今回、ユダヤの裁判、ピラトの裁判をつぶさに読むほどに、その裁判の不公正さというものをつくづく思わされた。ユダヤ最高裁の人々はピラトの法廷であえて偽証をやってのける。ピラトは責任回避を試みたり、政治的決着をつけることで保身をはかるほかなにも考えていない。公の裁判において、罪なき神の御子が罪とされたということは、この世の裁判所までもが、神の御前には絶望的なまでに有罪であるという現実をあきらかにしている。
 裁判所こそ、本来、正義が行なわれるはずの場所である。弱肉強食の世にあっては、財力や権力がある者が弱者を踏み潰していっても、裁判所にあっては権力や財力の有無にかかわらず、すべての人は法の前では平等である。裁判所は貧しい者が最後に訴える唯一のよりどころであるはずである。世のすべてが不公正であっても裁判所は最後の正義のとりでであるはずである。ところが、その公の裁判が罪なき神の御子を罪としてしまった。
 罪ある者が罪なき者を罪に陥れ、罪なきお方はが敵の罪までも背負って死んでくださった。神の御子と罪人のちがいが、ここに歴然となった。

 関連して思うこと。少し前、門田隆将『裁判官が日本を滅ぼす』という本を読んだ。一番驚いたのは、「大手銀行を訴えても勝ち目がない、なぜなら裁判官の定年退官後の花道が大手銀行の顧問弁護士であるから」ということばだった。暗然とさせられた。
 裁判員制度に対して否定的・消極的な人々の話をよく聞く。たしかに選ばれてしまったら実際たいへんであろう。カトリックでは政教分離原則から、司祭が裁判員にならぬように奨めている。だが、この裁判員制度は、裁判において神を畏れる者の意見が少しでも反映される機会ともなるのではなかろうか。