「私は、天の下で行われるいっさいの事について、知恵を用いて、一心に尋ね、探り出そうとした。これは、人の子らが労苦するようにと神が与えたつらい仕事だ。
私は、日の下で行われたすべてのわざを見たが、
なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。
曲がっているものを、まっすぐにはできない。
なくなっているものを、数えることはできない。
私は自分の心にこう語って言った。『今や、私は、私より先にエルサレムにいただれよりも知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。』
私は、一心に知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうとした。それもまた風を追うようなものであることを知った。
実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。」
伝道者の書1:13−18
ソロモンは東洋のアリストテレスと呼ばれる博識の人であった。いや、彼はおのが知識量に満足していられるような人でない。知的探求を「神が与えたつらい仕事」と表現していることを見ると、むしろ彼は知識欲に呪われた人と呼んだほうがよいのかもしれない。知って足ることを知らず、どこまでも探求しないではいられない、求めては渇き、渇いては求める。「くれろ、くれろ」とわめく蛭の娘が彼のうちに棲んでいたかのように。まるで何者かにとり憑かれたかのように。
かの時代から三千年ほど時をへだてた現代、私たちは科学的知識の危険性ということを感じている。科学的知識が人類を幸福にするものとして、手放しに賛美された時代ははるか百年以上も昔のことである。核兵器が開発され、DNAの解析がなされ、クローン人間の出現がささやかれている今、私たちは人間の飽くことのない知的探求の末恐ろしさを身近に感じている。「知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増すものは悲しみを増す」という事態が、かつてのように書斎人の高尚な嘆きにとどまらず、今や、世界中の人々の生命と被造物の存続の危機というかたちでひろがってしまっている。
最初の人が善悪の知識の木の実を盗って食べて以来、人は、知識に呪われているのかもしれない。
このこととの関連で思い至るのは、「何を知るか」以上にたいせつなことは、「いかに知るか」ということなのではなかろうかということである。ギリシャ文化を誇る知識人の多いコリント教会の教会姉妹を使徒は次のように戒めた。
「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないようには知らないのです。」(Ⅰコリント8:2私訳)
肝心なことはどれほど知っているかという知識の量でなく、知る者としての態度である。知り方である。知識を得たことによって高慢になり、神を忘れるようなら、私たちは正しい知り方を知らない。知るほどに、神の前にへりくだり、己が無知を認めて、神を畏れ愛する人となるような知り方。これこそ本当の知り方なのではないか。
「主を恐れることは知識のはじめである。」(箴言1:7)