苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

あのお方を知らなければ

エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。
空の空。伝道者は言う。
空の空。すべては空。
日の下で、どんなに労苦しても、
それが人に何の益になろう。

一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。
日は上り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く。
風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。
川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れ込む所に、また流れる。

すべての事はものうい。人は語ることさえできない。
目は見て飽きることもなく、耳は聞いて満ち足りることもない。
昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。
日の下には新しいものは一つもない。
「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。先にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶されないであろう。」
                 旧約聖書 伝道者の書1:1-11


 「行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しく留まりたるためしなし。」伝道者の書を読んで、この方丈記の冒頭が髣髴とするのは筆者だけではあるまい。そう。本書の薄暗い雰囲気は、慣れ親しんだ聖書の光の雰囲気というよりも、日本中世の仏教文学のそれに近い。聖書は広い。こんな入り口もあるのだ。
 そういえば、たしか三浦綾子さんが書いていた。戦中は軍国教員として情熱を傾けていた綾子さんが、敗戦後、虚無的になって心も生活も荒れていたとき、伝道者の書を開く機会があった。綾子さんは深い共感を覚えたのだという。人はたとえどんなに知恵を尽くし、全精力を傾けて努力したとしても、もし、真理を土台としていないなら、あのお方を知らなければ、そのすべてのわざはむなしくなってしまうのだ。