苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

Chromeが快適

 私も三週間ほど前からブラウザにグーグルのChromeを使い始めた。Internet ExplorerIE)は鈍重。Firefoxはそれよりずっとましだったが、Chromeを使い始めたら、これは革命的に快適だ。ボタンを押してブラウザが立ち上がる感覚は、まるで自分のPCの一つのファイルを立ち上げるのと同じ。デザイン自体、ぺラッとしたファイルのひとつという感じで、窓はひとつで、ボタンの数も最少限。不必要に重厚長大化する傾向のなかで、本来ブラウザとは何かと原点に立ち返って、その動きを洗練したものである。Chromeが、またデラックス化していかないことを希望する。
 こんなふうに書いていると、二千年前、イエス様が来られたときにも、似たような状況があったことを思い出した。ユダヤの教師たちは神の戒め(旧約聖書)の一言一句について膨大な律法注釈書をあらわし、儀式を精妙複雑化しているうちに何が本当に大事なことかわからなくなっていた。人々はそのややこしい儀式や律法の束縛の下にあえいでいたり、儀式を行なうことで自己満足するという状態になっていた。イエス様は「あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」とユダヤの教師たちに悔い改めを促した(マルコ7:8)。
 それから1500年が経ち、16世紀になると、ローマ教会は、荘厳な礼拝堂、華美な祭服、趣向を凝らしたもろもろの典礼、壮大な神学体系、聖職者のピラミッド的な階層組織という、IE化が進んでしまって一番肝心な救いの道が見えなくなっていた。ルター、カルヴァンといった宗教改革者たちは「聖書のみ」と原点に立ち返って、「信仰のみ」「恵みのみ」という救いの道を明らかにした。<人の救いの根拠はキリストの義であり、そのキリストの義を受け取る手段はただ信仰のみである>という福音をあきらかにしたのである。
 私は一人の伝道者として、この一番大事なことを、いつも鮮明にして生きてゆきたい。