苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖なる公同の教会

 教会が聖なるものであることと、教会が公同の教会であることとは、えてして矛盾することであるという解釈を読んだことがある。なぜならば、公同性は包み込む原理であり、聖性は区別する原理であるからということだろう。それぞれの教理や習慣の多様性を超えてひとつの群れとして教会を包み込もうとすれば、必ずしも道徳的に聖(きよ)くあること、教理的に純粋であることはむずかしいというのだろう。
 かつて私もそう思っていた。しかし、もっと歴史の現実に即して、世俗権力との関係において、教会の聖性ということを考えるならば、むしろ教会の聖性と公同性とは密接不可分のことなのである。教会が聖であるということの一番大事な意味は、教会がこの世の所有でなく神の所有であるという意味である。教会の歴史を振り返るとき、えてして教会は神の所有でなく、特定の国家や民族の所有となり、聖性を失った。そのとき教会は、小羊のなりをしながら、竜のことばを語るというグロテスクな姿をさらしてしまう(黙示13:11)。日本的キリスト教、ドイツキリスト者、市民宗教化した米国のキリスト教などいずれも、もっとも本質的な意味で聖性を失っている。
 教会が聖なるものとして、神のことばを語り続けるためには、教会が民族や国家を超えた公同性(普遍性)を持つことが必須なのである。
 「われは聖なる公同の教会を信ず」