苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

公同の教会

  週に一度千葉にある母校の神学校に授業をしに出かける。科目は教会史。きょうは今年度3回目で、1世紀から3世紀の教会迫害についてであった。もともと哲学・組織神学畑でものを考えてきた人間なので、まさか自分が歴史を教えることになろうとは思いもよらないことだった。が、ピンチなのだともっとも大切な友人に口説かれて、やむなく始めて数えたらもう四年目になる。
 大丈夫かなあという思いで始めたが,実際、大丈夫ではない。だが時にあやまりを指摘してくれる優秀な学生に恵まれていることがありたがい。
 こういう頼りない教師なのだが、胸が熱くなるような経験もクラスで折々する。歴史というものは、抽象化された教理条項とはちがって、生身の人間、しかも、神にいのちを捧げた先輩たちの具体的な信仰の戦いについて学ぶので、つい熱くなる。神学生時代には丸山忠孝師、大村晴雄師のクラスの中で経験した、あの熱である。
 特に、今の東京基督神学校の神学生たちが恵まれているのは、その国際的な環境である。これまで教えたクラスの中には、日本人だけでなく、中国人、韓国人、台湾人、米国人がいた。ローマ帝国の迫害と殉教などを学んでいると、近現代のアジアにおける悲惨と、どうしても重ねあわせて意識せざるをえない事象に出くわす。そうしたとき、クラスで語ることばが、ただ日本人にしか通じないことばでなく、どの国籍に生きる人にも通じる、本当の意味で普遍的なことばであることが要求される。教会の公同性・国際性ということを生きた場で学ぶことになる。
 国際性は教会が教会であるために、必須の条件なのである。過去において教会が日本の教会になり、アメリカの教会になり、ドイツの教会になり果てたとき、教会はもはや教会として死んでいたとさえ言わねばならないのではないか。
 「われは聖なる公同の教会を信ず」