苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

小次郎の死

 今朝、飼い犬の小次郎が死んだ。ここ三週間ほどめっきり弱って、昨日は水を飲むのも億劫な様子だった。小次郎は、12年前、保健所に連れて行かれるところをもらってきて飼い始めた、雑種だがきれいな姿のやさしい性格の犬だった。幼いころ、ジョンという名の犬を飼っていたときにはさほど意識しなかったのだが、小次郎を飼っていて、これはあきらかに人格というか犬格というべきか、特有の性格があることを感じた。

 17世紀のデカルトの二元論によれば、世界は精神と物体という二つの実体から成っており、人間は精神と物体の綜合であるが、人間以外の動物は精神を持たない物体あるいは機械であるという。この哲学によって、科学者は肉体を神秘的なものとしてでなく、機械の一種として捕らえることができるようになり、医学の発達の思想的基礎になったなどといわれる。デカルト哲学にはそのように人間を迷信から解き放つ功績もあったのだろう。

 しかし、動物がただの機械だというのは、現実を把捉しそこねた、狭い見方にすぎない。少しでも動物の世話をしたことがある人であれば、そのことがわかるだろう。散歩が大好きな小次郎は、毎朝尻尾を振って散歩をねだった。忙しさにかまけて二、三日散歩をサボるとふてくされてこちらを無視した。たまに引き綱をうっかり離すと、こちらをからかうように近寄っては走り去ることを繰り返して遊んだ。叱りつけるとシュンとなって反省した。その表情の豊かだったこと。

 創世記にはサタンに支配された蛇が女に語りかけたとあり、しかも、女はそれに対してごく自然に応じている。堕落前、被造物が喪に服する前には、人間と動物たちとの間に、堕落後とは比較にならぬほどの自由なコミュニケーションがあったのだろう。そして、それは終わりの日、万物が更新されるときに、栄光のうちに回復することになろう。もしかすると、そのとき、小次郎から「おひさしぶり。もっと散歩してほしかったです。」「外は氷点下15度で寒かった。」と言われてしまうかもしれない。

 また、会う日まで。小次郎。