苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神学校

「聖書神学」という科目

「聖書神学」という科目がもはや多くの神学校では提供されなくなっていることに、私は残念な思いを持っています。新約緒論、旧約緒論、各書概観、各書研究、釈義というのはあるのですが、聖書全体を歴史的な流れとして把握するという、ゲルハルダス・ヴォス…

北海道聖書学院を再訪

昨夜、北海道聖書学院での集中講義(春の公開講座)ら帰宅しました。3日間で9回連続「「聖書の眼鏡で原発問題を見る」講義と最後にチャペルメッセージでした。その他、北海道の牧師たちの集いでふたつのお話をしました。 このところ体調がいまひとつで、一日…

ご卒業おめでとう

東京基督神学校を卒業する諸兄姉へ ご卒業おめでとうございます。 今、貴兄姉たちとともに学んだ教会史のクラスの日々を思い起こしています。 インフルエンザで最終講義が抜けたときには、 わざわざ信州まで来てくださって集中講義とハイキングをしましたね…

神学生になる前に

神学校を出て教会に派遣されると、「先生」と呼ばれることになる。しかも、教会の牧師というのは理科や数学や国語の先生とはちがって、「人生の先生」であることが期待される。大学を終えて神学校3年間ストレートで来たら、わずか25歳。教会のメンバーの大半…

久しぶりの授業

昨日は房総半島のある教会でお話。今日は、久しぶりに千葉ニュータウンの東京基督神学校で伝道に関する授業。 神が我々に与えた使命は、伝道と社会的責任である。両者ともにおろそかにしてはならないし、不可分である。不可分であるが、特別恩寵である福音を…

手をかければよいのか

ホタルブクロ 先日、ある経験ゆたかな弁護士が、現代の法曹育成の問題点について発言なさるのをうかがって、たいへん驚いた。氏は、「数年前から、大学を出て法科大学院を出なければ司法試験が受けられなくなった。だが、そのように法曹へのハードルを高くす…

一つのキャベツと「聖なる公同の教会」

「同盟には神学がない。」神学校1年生のころ、同級生にそう言われた。東京基督神学校(キリ神)は、もともと長老教会色の強い神学校で、そういうことを言うのは長老教会出身の神学生だった。だが、キリ神で学びが進むにつれて、ようすが変わってきた。それは…

伝道者の召し

本日東京基督教大学・東京基督神学校の卒業式に出かけてきた。実は、自分の卒業以来初めてのことである。教え子たちの卒業なので、ぜひと思った次第。 大きなチャペル、巨大なガルニエ・オルガン、大学のほうには振袖・袴姿の学生もいたりする華やいだ雰囲気…

フランソニアン

小海キリスト教会が属する日本同盟基督教団はフレデリック・フランソン(1852-1908)が創始者であるTEAM宣教団(元北米スカンジナビア同盟宣教団)の宣教師たちによって生み出された。彼の母は折からスウェーデン国教会内に起こっていた敬虔主義運動の影響…

バトンは受け取れたのか?ー小畑進先生

小畑進先生が天に駆け去られたのち、しばらく経って考えさせられていることは、私たちはバトンはちゃんと受け取ることができたのかということである。小畑先生はキリ神が、来春には入学者募集を打ち切ろうとするこのときに、天に召された。小畑先生が神学教…

小畑進先生からの宝物

京都のKGKの高木主事は小畑先生の赤白帽子を記念にいただいたそうである。そういえば、私が駆け出しの伝道者として練馬で下宿していたある日、大家さんが「おい。下に変なのが来てるぞ!」と呼びに来られたことがあった。一体誰だろうと思って出てみると、ほ…

無冠の帝王

「無冠の帝王」。小畑進先生を評して、神学生たちはひそかにそう呼んだ。先生は欧米への留学経験やThDやPhDといった学位を取得なさらない、ひとりの牧師であられたけれども、その学識の広さ、底知れぬ深さと、霊的な迫力には、他の先生がたの追随を許さない…

小畑進先生 召天

「昨日11月26日午後11時2分、小畑進先生召天」との報せを今しがた受けました。心臓突然死という死因。つい先ごろ10月29日にキリ神同窓会で久々にお目にかかり、使徒の働き17章から「アテネのパウロ」という東西思想に広くかつ深く通じた碩学の伝道者ならでは…

Biblos、Classic Bible Commentaries、それからハッチ死す

神学生、牧師伝道者にBiblosというサイトを紹介したいと思います。聖書研究のためのパソコン・ソフトとしては、Bible WorksとかMac BibleとかAccordance、日本語ではJ-バイブルが有名ですが、どれもこれもとても高価です。 Biblosというのは無料です。内容は…

七人の神学生来訪

きのうはキリ神の学生たち7名が、千葉からわざわざ教会史概論の最後の講義を聞きに来てくれた。私は遠足の朝みたいに朝早く目が覚めてしまった。課題は、インフルエンザ休講になってしまった近代の教会史を集中的に学ぼうということ。当初、一泊を予定してい…

神学生たち

「友人たちと車に乗り合わせて行きますので、教会史概論の最終講義をしてもらえませんか。」先週末、神学生の創君から電話があった。インフルエンザのために学校が一週間閉鎖になってしまい、18世紀から20世紀を扱う二回分の講義ができなくなってしまったか…

インフルエンザ休校

あしたは神学校の二学期最後の授業を予定したのだが、インフルエンザで休校になってしまった。しかも、北海道での奉仕のために一度休んだ分を取り戻すための補填分もあわせて、あした行なおうと予定していたのである。18世紀啓蒙主義とフランス革命と敬虔主…

東京基督神学校60周年 小畑進先生

今日はキリ神60周年記念礼拝・記念講演会に午前中出席し、午後は授業だった。記念礼拝説教は下川友也先生、講演は小畑進先生である。小畑先生とは25年ぶりにお目にかかる。先生は今年81歳。講義は使徒の働き17章、アテネにおける使徒パウロについてであった。…

『葉隠(はがくれ)』(その1)

「武士道とは死ぬことと見つけたり」ということばで有名な『葉隠』である。本書は佐賀鍋島藩藩士山本常朝の作であり、すでに戦国期の実戦的な武士の時代ははるか遠くになって、ひたすら忠義のために生き、忠義のために死ぬという江戸期の武士道の精神を表す…

夏季インターン四方山

今年も母校からインターン生として神学生の齋藤君を迎えた。毎年のように研修に来てくださる方が、それぞれ個性があって楽しい。わずか二週間余だったが、ずいぶん長い間いっしょに暮らしたような気がするのは、その日々が充実していたからだろう。 8月8日(…

修道院的循環

教会史家の用語に、「修道院的循環(monastic cycle)」ということばがある。中世において教会はしばしば世俗化し霊的に沈滞してしまった。そういうとき、志ある人々が起きて、修道会を作ったが、数十年経つとその修道院も世俗化してしまう。すると別の修道会…

神学にふさわしい場所

数年前の2月11日、木村公一牧師にお目にかかった。木村公一牧師とは、ブッシュによるイラク戦争開戦直前、イラクに「人間の盾」として立った人である。健全な精神と健全な肉体ということばが私の胸に浮かんだ。権力にも、富にも、名誉にも媚びず、立つべきと…

学者の適性と牧師の適性

主イエスの牧会者・伝道者養成の二原則は、召しと模範である。だとすれば、牧会者の模範となりうる者は、すぐれた牧会者であり、伝道者の模範となりうる者はすぐれた伝道者であるということになる。だが神学者と牧会者・伝道者を両立させることは困難である…

仕えるために

「わたしについて来なさい」と主はシモンやアンデレやヤコブやヨハネたち十二人をお召しになり、訓練が始まった。その歩みのなかで、十二弟子が繰り返して陥った過ちは、「私は主に特別に召された者だ」という鼻持ちならない特権意識と傲慢な振る舞いであっ…

召しと模範

きょう、神学校の1学期の最終講義だった。ほっと一息。担当は教会史概論で、1学期は初代教会に始まり、中世に入ったところで終わり。今年は新たな試みとして、わずかだが、シリア教会、アッシリヤ教会によるインド、東方の宣教に触れた。 * * * 神学校の…

使徒の召しと訓練

神は、使徒たちをどのように召し、訓練されただろうか。その原則は、今日の牧師養成に生かされるべきである。1.新約聖書で「召し」ということばが用いられているのは、第一には救いへの神の召しという文脈(1コリント1:26)と、第二は牧師伝道職への神の…

アウグスティヌス

昨日、神学校で、前回につづきアウグスティヌスの話をした。若き日の雄弁術教師としての出世のもくろみ、十六歳にして同棲し十七歳にして子を得たという(かならずしも当時にあっては珍しくなかったとはいえ)放蕩的生活、母モニカの古臭いキリスト教信仰へ…

再考 職業召命説

(6月4日 キリ神チャペル説教余禄) 1. ルターと職業召命観のプロテスタント圏へのひろがり ローマ教会では、司祭職・修道士は聖なる職務につくものであり、その他の労働は俗なる卑しいものであると見做された。聖書に立ち返った宗教改革者は中世ローマ…

かすみ草

二十数年まえ神学校の寮で同室だった先輩に高木実さんがいる。高木さんは、神学校卒業後、首尾一貫してキリスト者学生会KGK主事として労してこられた。高木さんの好きな花はかすみ草。「マイナーな引き立て役が、神のくださった自分に対する役どころであるか…

誇りと負債のゆえに―伝道者の召し―

ローマ1:1、14−17、 1コリント9:14−18 2009年6月4日 東京基督神学校チャペル1.「召し」ということば 聖書で召し、召命ということばは、二つの意味で用いられています。 (1)救いへの召し、神の民への召し 召しクレーシスということばは、ひ…