苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

教育

ほとんどの日本人は「信教の自由」の意味がわかっていないらしい

毎日新聞の「宗教二世」に関するヤフーコメント欄を読むと、統一協会の宗教二世をめぐって、日本人が「信教の自由」の意味がわかっていないことに暗然とする。多くの日本人が単に「信教の自由とは何を信じようと勝手だ」という意味だと思い込んでいるのだ。 …

卒園式

近所の保育園「あいか」の卒園式に出かけてきました。卒園するこどもたちの祝福のお祈りをするためです。健気なこどもたちの姿と、涙する親御さんたちの姿を見ていて、もらい泣きしてしまいました。 『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。 主が…

HBIのピクニックとステンドグラス

昨日は、妻といっしょに北海道聖書学院(HBI)のピクニックに出かけました。さとランドという公園です。ものすごく広々とした公園で、木陰でゲームをしたりバドミントンをしたりして、お弁当を食べました。私はバドミントンを一生懸命やりすぎて、今朝は、少々…

北海道聖書学院1学期講義おわり

今日は北海道聖書学院で1学期最後の講義でした。来週は試験です。担当したのは、キリスト論・救済論。キリスト論と救済論とを統合したクラスです。少し時間が足りないと感じて走りましたが、まあ、一応話すべきことは話せたかなと思います。かなり多くのレ…

歴史教科書の恐ろしさ・・・民族と国家の始まり

*教育の恐ろしさ 教育というものは恐ろしいものだと、かつてある紳士と話していたときに思った。聖書の古さの話をしていたとき、私が「日本の歴史はまあせいぜい千七百年ほどですが・・・・。」と話したとたんに、「なにを言いますか。日本の歴史はすでに二…

ヒラメ問題

大津の中2いじめ自殺事件について、校長は「生徒のSOSに気付かなかった。(いじめを警戒する)意識がほとんどなかった」と初めて会見で釈明している。複数の生徒が勇気を出して「いじめがある」と先生たちに報告がされているのに、校長はこれを「けんか」…

意図と形式と改革

「パリサイ人と律法学者たちは、イエスに尋ねた。『なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。』 イエスは彼らに言われた。『イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、ま…

娘の旅立ち

(だいぶ以前の文章です。) 小学二年生の娘が転校することになった。引越したので、校区が北牧小学校から小海小学校へと変わったためである。二年生とは言っても、保育園からずっとクラス変えもなく五年間いっしょに歩んできたお友だちと別れてしまうのはさ…

いったい誰のための教育か?・・・・被曝地域で新学期

福島第一原発にほど近い地域で、子どもたちの新学期が始まったという報道に接した。校庭にもガイガーカウンターを設置して適宜、校舎にはいらせたりするのだそうだ。 子どものばあい、格別、甲状腺がん発生の可能性が高いことくらい、文部科学省と教育委員会…

平等主義と権威主義

校長と生徒が同じフロアで行なうフロア形式の卒業式というのは、校長も生徒も平等だという考えからできたかたちだろう。他方、校長を壇上に、生徒たちを壇下のフロアにという形式は、生徒に対する校長の権威が大事だと考えるところからできたかたちだろう。 …

卒業式のかたち

以前、何か特別番組で、都立養護学校が都教委の指導で卒業式が強制的に変更させられて困っているということを見たことがある。石原都政の下で都教委の締め付けが厳しくなる以前、都立養護学校では、車椅子・歩行器を使う子どもたちも、自分で校長先生の前まで…

一つのモノサシとつまらん世界

新自由主義経済というのは、要するにカネのある奴が、カネの力に物を言わせてカネの無い人や会社を踏み潰し呑み込んでしまう経済システムである。だから、小さいけれども個性的でおもしろいものは踏み潰されて、結果、全体が等質化されてつまらん世界になっ…

中国語と英語、日本語とコイネー・ギリシャ語

中国語と英語は似ている。格変化がないので、語順をきちんと決めておかないと、意味不明の文章になってしまうという点においてである。いちばん簡単な例を挙げてみよう。 I love you. 我 愛 你 (ウォー・アイ・ニー) ところが、日本語の場合、格助詞をつけ…

男は男らしく、 女は女らしく

「女は男の衣装を身につけてはならない。また男は女の着物を着てはならない。すべてこのようなことをする者をあなたの神、主は忌み嫌われる。」申命記二十二:五 次の文章は、通信小海117号(2003年7月号)の記事である。 数年前、小学校の体操服の色が変わっ…

えこひいき

旧約聖書にヤコブとエサウという双子の兄弟が登場します。双子とはいえ、二卵性双生児であったらしく、似ても似つかぬ二人。兄エサウは子どものころは外遊びが好きで、長じては筋骨隆々で毛深く、ハンティングの名人となりました。性格は粗暴なところがある…

主の役に立つ者に

使徒15:36-41 2010年7月25日 小海主日礼拝 小海夜明け バルナバとパウロは、第一回伝道旅行が終わってしばらくの間、アンテオケにとどまってアンテオケ伝道に励みましたが、幾日かたって後、パウロはバルナバにこう言いました。「先に主のことばを伝えたすべ…

信州味噌

(赤ジャガイモの花) 朝五時、小学校への道を散歩をすると途中の大豆畑で、草取りをするにいつさんのおばあちゃんに会う。見た所一反(300坪)に少し欠けたサイズの畑である。一つの家が枝豆として食べるには多すぎる。「こんなにたくさんの大豆をつくってど…

手をかければよいのか

ホタルブクロ 先日、ある経験ゆたかな弁護士が、現代の法曹育成の問題点について発言なさるのをうかがって、たいへん驚いた。氏は、「数年前から、大学を出て法科大学院を出なければ司法試験が受けられなくなった。だが、そのように法曹へのハードルを高くす…

一つのキャベツと「聖なる公同の教会」

「同盟には神学がない。」神学校1年生のころ、同級生にそう言われた。東京基督神学校(キリ神)は、もともと長老教会色の強い神学校で、そういうことを言うのは長老教会出身の神学生だった。だが、キリ神で学びが進むにつれて、ようすが変わってきた。それは…

伝道者の召し

本日東京基督教大学・東京基督神学校の卒業式に出かけてきた。実は、自分の卒業以来初めてのことである。教え子たちの卒業なので、ぜひと思った次第。 大きなチャペル、巨大なガルニエ・オルガン、大学のほうには振袖・袴姿の学生もいたりする華やいだ雰囲気…

バトンは受け取れたのか?ー小畑進先生

小畑進先生が天に駆け去られたのち、しばらく経って考えさせられていることは、私たちはバトンはちゃんと受け取ることができたのかということである。小畑先生はキリ神が、来春には入学者募集を打ち切ろうとするこのときに、天に召された。小畑先生が神学教…

小畑進先生からの宝物

京都のKGKの高木主事は小畑先生の赤白帽子を記念にいただいたそうである。そういえば、私が駆け出しの伝道者として練馬で下宿していたある日、大家さんが「おい。下に変なのが来てるぞ!」と呼びに来られたことがあった。一体誰だろうと思って出てみると、ほ…

七人の神学生来訪

きのうはキリ神の学生たち7名が、千葉からわざわざ教会史概論の最後の講義を聞きに来てくれた。私は遠足の朝みたいに朝早く目が覚めてしまった。課題は、インフルエンザ休講になってしまった近代の教会史を集中的に学ぼうということ。当初、一泊を予定してい…

神学生たち

「友人たちと車に乗り合わせて行きますので、教会史概論の最終講義をしてもらえませんか。」先週末、神学生の創君から電話があった。インフルエンザのために学校が一週間閉鎖になってしまい、18世紀から20世紀を扱う二回分の講義ができなくなってしまったか…

インフルエンザ休校

あしたは神学校の二学期最後の授業を予定したのだが、インフルエンザで休校になってしまった。しかも、北海道での奉仕のために一度休んだ分を取り戻すための補填分もあわせて、あした行なおうと予定していたのである。18世紀啓蒙主義とフランス革命と敬虔主…

小海小学校

今朝、小学校に読み聞かせに行ってきた。校長先生が読み聞かせのたいせつさを強調なさって、地域のボランティアを募って3年前から始まった。ルケードの『たいせつなきみ』は、これまで二・三のクラスで読んだ。この間は、『とうもろこしおばあさん』というア…

学者の適性と牧師の適性

主イエスの牧会者・伝道者養成の二原則は、召しと模範である。だとすれば、牧会者の模範となりうる者は、すぐれた牧会者であり、伝道者の模範となりうる者はすぐれた伝道者であるということになる。だが神学者と牧会者・伝道者を両立させることは困難である…

仕えるために

「わたしについて来なさい」と主はシモンやアンデレやヤコブやヨハネたち十二人をお召しになり、訓練が始まった。その歩みのなかで、十二弟子が繰り返して陥った過ちは、「私は主に特別に召された者だ」という鼻持ちならない特権意識と傲慢な振る舞いであっ…

召しと模範

きょう、神学校の1学期の最終講義だった。ほっと一息。担当は教会史概論で、1学期は初代教会に始まり、中世に入ったところで終わり。今年は新たな試みとして、わずかだが、シリア教会、アッシリヤ教会によるインド、東方の宣教に触れた。 * * * 神学校の…

使徒の召しと訓練

神は、使徒たちをどのように召し、訓練されただろうか。その原則は、今日の牧師養成に生かされるべきである。1.新約聖書で「召し」ということばが用いられているのは、第一には救いへの神の召しという文脈(1コリント1:26)と、第二は牧師伝道職への神の…