苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ペンテコステの飾り

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ペンテコステ飾り

 

使徒の働き2章1ー3節
五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。

  ペンテコステはもともと小麦の収穫感謝祭。その日、御霊がくだりました。そのさまは、炎のような赤い舌だった、というのです。奇妙なしるしですね。

高齢ドライバーの事故率は20代ドライバーの事故率より低い

交通事故率は、「16~19歳」がダントツに高く、それに続くのが「20~29歳」。その次に来るのが「80歳以上」です。30代から70代の事故率はほとんど差はありません。

 マスメディアが高齢ドライバーの事故ばかりことさらに取り上げるけれど、実際には、高齢ドライバーの事故率は、20代ドライバーの事故率よりも低いんです。じゃあ免許取得は30歳からとしますか?まさかでしょう。

 免許のことに限らず、法制化というのは、メディアで作られた世論によらず、ちゃんと統計に基づいて行わないと、規則だらけで不便な社会になってしまいます。何か事故があって、メディアがワーワー騒ぐと、すぐに法律を作りたがる政治家や官僚が多いように見受けます。国会議員は、マスコミの作った雰囲気に踊らされず、正確な統計に基づいて、真に国民の生活を考えて、立法は慎重にしてほしいものです。

 都市生活者にとっては自家用車は「あれば便利」程度のものでしょうが、地方では自家用車は必須のものです。もし一律免許返納を義務付けたら、地方の生活は成り立ちません。

 下を参照してください。

https://news.yahoo.co.jp/byline/mamoruichikawa/20161120-00064606/?fbclid=IwAR0SX3YuqU1GVh7kipjvqDFVPp10Y2mYv0mDb0HgN8kSpOdMAf-2SBmaDcc

相続人

 このところ、聖書のいう救い、神の計画を理解するために「相続者」ということがもっとも重要な包括的概念であることが鮮明に見えてきました。キリストは世界の相続者であり、神がキリストのうちに聖徒たちを選び、召し、義とし、子とし、聖とするのは、共同相続者とするためでした。
 「神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。」(ヘブル1:2)
 「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」(ローマ8:17)

 キリストは世界の相続人なので、神と世界の仲介の役割を果たします。その仲介の働きをさらに具体的に説明するなら、預言者・祭司・王ということですが、相続者とはすなわち王ですから、王が基本で、預言職と祭司職をもつ王というのが正確だと思います。そして、キリストの教会はキリストとの共同相続人として、世界においてキリストのお働きの手伝いをします。このように理解すると、教会とキリス者の任務を総合的にバランスよく把握することができます。

 

 

①神は御子を世界の相続者と定めた(ヘブル1:2)。

 

②世界を創造する前、神は御子にあって、神の民を選び(エペソ1:4,5)、御子との共同相続人に定めた(ローマ8:17)。

 

③神は、御子によって世界を創造した(ヨハネ1:3)。特に人間は御子(神のかたち)に似た者として創造した(コロサイ1:15、創世記1:26,27)。御子に似た者としての人間は、知と義と聖(コロサイ3:10、エペソ4:24)である。

 

④創造の契約。人間は、善悪の知識の木に表された神の主権の下において、地の相続人となり、栄光化されて地を治めるためである(創世記1:26‐28、同2:15‐17))。その際の三つの暮らしの秩序は、安息日と仕事と家庭である。

 

⑤ところが、人間は、蛇に誘惑されて善悪の知識の木の実を取って食べて神の主権に背き(創世記3章)、結果、死つまり神と断絶状態に陥り、悪魔の闇の支配下に置かれ(コロ1:13、エペソ2:2)、その原罪は全人類に及んだ。

 

⑥原福音:神は、悪魔の頭を踏み砕き(創世記3:15)、血を流して罪をおおう(創世記3:21)救い主の到来を予告した。その後の恵みの契約は、アブラハム契約は相続の契約、シナイ契約は幕屋と律法の契約、ダビデ契約は王国の契約であり、ことごとくキリストにあって成就する。

 

⑦御子は完全な神性に、完全な人性をまとわれた(ヨハネ1:14)。人間でなければ人間の代表たりえず、神でなければ人間の罪を償い、神の怒りを宥め、悪魔の圧制から救い出すことはできないからである。

 

⑧御子は預言者として、神と神のみ旨を教え(ヨハネ1:18)、祭司として神の民の罪の償いのために十字架でいけにえとなり(へブル7:27)、王として悪魔と戦って勝利を得て私たちを闇の圧制から救い出した(コロサイ1:13)。

 

⑨神の民(教会)はキリストのからだとして、預言者として福音を伝え、祭司として執り成し祈り聖礼典を執行し、王として罪と戦い教会を治める(1ペテロ2:9)。

 

⑩終わりの日、キリストは再臨し、王として最後の審判によって、悪魔と悪魔につく者たちを火の海に投げ込み、キリストにつく者たちに新しい地を相続させ治めさせる(黙示録20‐22章)。

 
 

人権思想とキリスト教

 青学の森島豊先生の講演をうかがいました。キリスト教思想史が御専門という方で、でも、学者というアイデンティティ以上に、説教者ということを第一にしていらっしゃるとのこと。すらりとイケメン、イントネーションは「標準語」ですが、お話しぶりは関西人やなあ、という感じでした。これは学生たちの人気があるでしょうね。
 内容は、人権思想の成立にキリスト教、特にプロテスタンティズムの影響ということでした。英国市民革命の説教運動が果たした役割というのが特に印象深く残りました。また、日本国憲法の下敷きには、キリスト教に深い影響を受けた植木枝盛憲法が、マルクス主義運動に挫折した鈴木安蔵に掘り起こされて、憲法研究会の憲法草案となって、マッカーサー草案の骨子に相当の影響を与えたことに触れられました。
 政治運動が禁止され激しい弾圧をのがれて、カルヴァンやルターのもとに学びに行った人々が帰国して、地下にもぐって説教運動をしていくことで、それまで知識人のピューリタニズムが民衆に浸透していったという指摘には、自分の使命ということと重ねあわされて、励ましを受けました。
 そして、やがて人権思想は法制化されていきますが、そのときコモンローの運動家たちと一緒に戦ったという点は、課題となって今日にいたっていると思います。一番最後の点。神学生時代、靖国神社公式参拝に反対する集会に出たあと、デモに参加していたら、後ろから社会党街宣車がくっついてきて、「ともに頑張りましょう」と叫んでいました。そうしたら、その後ろから右翼の街宣車がくっついてきて、何か怒鳴っていました。あちらからみると、キリスト教社会党啓蒙主義・コモンロー派)も一緒に見えてしまうんでしょうね。
 啓蒙主義者の人権理解と、キリスト者の人権理解の根本的なちがいは、「自由」の理解の違いだと思います。自由は「AからBへの自由」と把握ことによって、具体化されます。啓蒙主義者のコモンローにおける自由とは、「国家権力から自律への自由」ですが、キリスト者の自由とは「国家権力から神への服従への自由」です。戦った相手は同じでしたが、目指すことが異なります。つまり、啓蒙主義者の場合、「神」のところに「人権」が入ってしまいます。人権の神格化は、それはそれで問題です。私たちはこのことをわきまえていないといけませんね。

 今、新幹線の中ですが、森島先生の『人権思想とキリスト教』という本を読み始めました。

 羽田にいます。森島先生『人権思想とキリスト教』を帰り道に読んでいます。明治の人権思想家植木枝盛、それを掘り返して日本国憲法に注入した鈴木安蔵がいたわけですが、森島先生によれば、それにもかかわらず、日本においては人権思想史としてつながっていかないという問題があります。日本国憲法に人権思想が語られていても、それを受け止める受け皿がなかったのではないか、と。それゆえ、むしろ、今日ではその反動の時代にはいって、97条の最高法規である基本的人権条項を破棄する憲法改正草案をかかげた党派が政権を握っているありさまです。
 なぜ、このように「受け皿」がなく「単発」に終わってしまったのか。日本人が、人権をまことにかけがえのないものであることを深く知っていないからです。日本人の基本的価値観エートスになっていないからです。それは、一つには聖書に啓示された「神のかたち」として造られた人間の尊厳という、人権の根拠を持っていないからです。・・・そうだとすれば、真正の福音の説教がいかに大事かと思わせられます。


 

くつした

掛川でJEA総会。長い長い会議。
なんと苫小牧の自宅に靴下を忘れてきてしまった。1足の靴下で二泊三日を過ごしたら、水虫になってしまう。はだしで革靴は、どっかの芸能人みたいでいやだなあ。
朝、ヘブル書を読んでいたら、安息日に関する不思議なみことばに突き当たって、わからない。
・・・と、そうだ、靴下を洗って、ドライヤーで乾かせばよいのだ!ドライヤーの熱風の吹き出し口に靴下をはめたら、くつしたが長い風船みたいにピンッとなって、乾きました。
ヘブル書とどういう関係があるかわからんけれども。
感謝。ハレルヤ

「キリストの真実」か「キリストを信じる信仰」か?(ローマ書1-8章概要から抜粋)

ローマ3:22

・新改訳2017

「すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。」

・聖書協会共同訳

「神の義は、イエス・キリストの真実を通して、信じる者すべてに現されたのです。そこに差別はありません。」

  pistis Iesou Christouは英語にそのまま訳せば、faith of Jesus Christとなる。文法的にいえば、この属格は「イエス・キリストの真実(信仰)」と主格的属格にも、「イエス・キリストを信じる信仰」と対格的属格にも訳しうる。love of Godは「神の愛」とも「神を愛する愛」とも訳せるのと同じ。いずれが正しい訳語であるかを決定するのは、文脈である。聖書翻訳においてはローマ書3章22節pistis iesou christouは、長年「イエス・キリストを信じる信仰」と訳されてきた。

 ところが、カール・バルトは『ロマ書』で「キリストにおける神の真実」と訳した。19世紀の自由主義神学は、人間が愛の人イエスを模範としていわば「下から上へ」向かって行けば神の国は到来すると教えたが、その無力を痛感したバルトは、神は絶対他者であり、神の国は「上から下へ垂直に」到来するのだと主張した。その神学が、「人がキリストを信じる信仰」でなく、「キリストにおける神の真実」という訳語を産んだ。だが、これは信じなくてもキリストのゆえに義と認められるというバルトの万人救済論が背後に隠れている翻訳でもある。

 その影響であろうか、近年、E.P.サンダースによってローマ書3:22「ピスティス・イエスー・クリストゥ」について「イエス・キリストの真実によって」という訳語が提案され、他にも同調者が現れた。新改訳2017は脚注にこれを入れ、聖書協会共同訳は、脚注でなく本文に、この説を採用した。「イエス・キリストを信じる信仰」と「イエス・キリストの真実」と、どちらが正しい訳語だろうか?

 伝統説「イエス・キリストを信じる信仰」という訳語はキリストの血による宥めのささげものを義認の根拠としつつも、義認を受け取る手段としての信仰の重要性も表現している。他方、新説「キリストの真実」という訳語では義認におけるキリストの重要性のみが強調されて、信仰の重要性は軽んじられることになる。

 

パウロはガラテヤ書の類似の文脈で、pistis christouを「キリストを信じる信仰」の意味で用いている。

・ガラテヤ2:16「 しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって(dia piteos Christou Iesou)義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました(episteusamen つまりpisteuoの過去形)。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって(dia pisteos christou)義と認められるためです。」

  ここには、2回dia pisteos Christouが出てくる。ところが、同じ節の中で動詞形piteuoの過去形があって、これは当然「信じた」と訳される。だから、前後のpistis Christouもまた、「キリストの真実」とは訳すことは不可能である。つまり、パウロはここで義と認められるためには、律法の行いでなくキリストを信じる信仰が重要だと述べている。

 

②ローマ書3章22節から4章に展開する文脈上から、「pistis christou」を「キリストの真実」と訳すことは不可能である。

 確かに、文脈から切り離してローマ3章22節だけ日本語で見れば、「神の義は、イエス・キリストの真実(ピスティス)を通して、信じる者すべてに現されたのです。」という思想自体はまちがいではない。しかし、ここをそのように読むのは、ギリシャ語本文と文脈からして無理である。

 そもそも、当該の3章22節の中においてさえ「eis pantas pisteuontas」とあって、こちらは「信じるすべての人に」と訳す以外方法はない。同じ節の中で、名詞形と動詞形の違いはあるにせよ、片方は「真実」と訳し、片方は「信じる」と訳し分けるのは翻訳者の予見が入りすぎである。

 また少し広く文脈を見れば、3章20節から、律法の行ないと信仰と義認についての議論が始まっており、さらに3章27節以降を見れば、「行いの律法(原理)」と対比して「信仰の律法(原理) ノモス ピステオス」と訳されている。これは「真実の律法」ではまるで意味が通らない。28,30,31節においても全てピスティスは「信仰」としか訳しえない。訳しえないので、なんと聖書協会共同訳は、27節の前で文脈を断ち切るために、ここに小見出しを挟み込むという禁じ手をあえて行っている。つまり、小見出しによって文脈を操作して、pistis Christouの訳語を「キリストの真実」としたことに疑義が挟まれないようにしたのである。さらに4章へと進めば、アブラハムダビデが行いによって義と認められたのでなく、信仰が義と認められたというサンプルとして議論が展開する。ここでもpistisは「信仰」と訳すほかない。つまり3:20節から4章末尾まで、義認に関して、信仰と律法の行いの話題が論じられているわけで、その中でpistis christouということばがあるのだから、これを「キリストを信じる信仰」でなく、「キリストの真実」と訳すのはアウトオブコンテクストなのだ。

 結論。救いにおける神の主権的恩寵、義認の根拠であるキリストの宥めのささげ物はいうまでもなく重要である。しかし、パウロは、ローマ3:21ー4章末尾の文脈においては、神の恵みを受け取る手段としての行いでなく信仰が必要だと説いているのである。したがって、伝統説「キリストを信じる信仰」が正しい翻訳である。文脈を見れば迷うような訳語ではないのだが、翻訳者があらかじめ主張したいことがあって間違えたのであろう。

*ローマ書1-8章概要はこちら
https://ameblo.jp/caelnouta/entry-12465094608.html

ローマ書1章から8章

 昨年、ローマ書の連続説教をしたり、サンダースやライトの著書にふれたり、契約神学を勉強しなおしたりしているうちに、ある日、ローマ書がいう救いの二側面が見えてきました。

 それは、1章から5章11節までは、キリストによる代理の刑罰を根拠とした法的な意味での救いの表現であり、5章12節から8章は、罪(悪魔)の力からキリストの支配の下に移され新しい御霊によって生きるという生命的な意味での救いの表現であるということです。

 この救いの二側面は、創世記3章に二通りで表現された福音と対応しています。ひとつは主が動物の血を流して恥を覆う皮衣を用意してくださったことに予表されたキリストの代償的贖罪の約束であり(3章21節)、もうひとつは女の子孫キリストが悪魔に勝利するという約束です(3章15節)。

 西方教会、1章から5章11節までを理解することに長けていて、東方教会はむしろ5章12節から8章末までを理解することに長けていたということです。それは西方世界は法的思考にたけていたからで、東方世界は存在論的思考に長けていたからでしょう。とはいえ、西方教会の中でもカルヴァンはちゃんとこの二つの面をしっかりと読み取っていることにも気づきました。